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「証明写真を撮るだけなのに、なぜこんなにも緊張しているのだろう?」
——そんなことを考えながら、僕はスーツ姿でミンティアを噛みしめていた。
写真機に入るのは、たった数分。なのにその数分のために、準備して、着替えて、気持ちを整えて、呼吸を整えて、さらには人に見られないようにルートを考える始末である。
人生で何度か経験するこの「証明写真イベント」は、ある種の通過儀礼だ。
けれど今回の僕は、通過儀礼のつもりで行った証明写真撮影で、**まさかの“侵入事件”**に遭遇することになる。
そう、あれはちょっとした外出のつもりだったのだ。
スーツで出かけた「5分の旅」の先に、あんな小さなパニックが待っているなんて、僕は思ってもみなかった——。
第一節 スーツとミンティアと僕
今日は証明写真を撮りに行った。
といっても、どこかのスタジオに予約して……というような大ごとではない。目的地は、家から歩いて5分ほどの、街角にぽつんと佇む証明写真機だ。
にもかかわらず、僕は、スーツを着て出かけた。
外出前、鏡の前でネクタイを締める自分を見ながら、どこかで笑っていた。
「お前は今から、箱に入って数秒で顔写真を撮られるだけだぞ」と。
けれどそれと同時に、妙な緊張感も湧いてくる。
なぜなら、証明写真機は“人に見られる空間”の中にあるからだ。
第二節 見られる恐怖、見せたくない真顔
目的の証明写真機は、駅近のドラッグストアの前に設置されている。
周囲には歩道があり、コンビニがあり、焼き鳥屋があり、つまり……人が多い。
「ここに入って真顔の写真を撮る」という行為が、想像以上に恥ずかしい。
学生証の顔写真でさえ、人に見せるのはためらわれるのに、今回は“撮ってる最中”を見られるのである。
——正装で写真機に入って真顔。
これが何よりこっぱずかしい。
誰も見てないとわかっていても、写真機の前で立ち止まった瞬間に、自分の羞恥センサーがピーピー鳴り出す。
そこで僕は、一度写真機をスルーし、すぐ横のコンビニに逃げ込んだ。
そして、ミンティアを5粒一気にキメた。
ミントの刺激で「戦うモード」に切り替えるためである。
第三節 秘密基地と僕と革靴と
勇気を出して、いざ証明写真機へ。
カーテンをくぐって中に入ると、そこには思いがけない“安らぎ”があった。
少し屈めば外の通行人が見える。けれど、自分は完全に囲まれている。
この“外から見えない安心感”が、妙に居心地を良くしていた。
カメラ、グリーンバック、タッチパネル。どれもが非日常的な空間を作っていて、僕はちょっとした秘密基地に入ったような気分になっていた。
……だが、そんな高揚感は長く続かなかった。
財布を取り出し、お金を入れようと視線を落としたその瞬間。
カーテンの下から、黒い革靴が見えた。
「えっ」
思わず固まる僕。
革靴の主は、カーテンをそっとめくった。そして、僕と目が合った。
僕はとっさに、「すみません、今使ってます」と、落ち着いた大人のトーンで言うつもりだった。
が——
「あ、わわ、あ、ごめん」
とっ散らかった言葉が口からこぼれた。
第四節 テンパる才能についての考察
まさかこの年齢になって「わわわ」と口走るとは思わなかった。
しかも、初対面の革靴の主に対してタメ口で「ごめん」。
どこからどう見ても“侵入される側”なのに、僕は謎の謝罪をしていた。
その人は気まずそうに去っていったが、写真を撮るどころではなくなった。
気持ちは完全に「泥棒に入られたあとのリビング状態」である。
心は乱れ、汗がじっとり。
ここがあの秘密基地だったとは思えないほど、閉鎖空間が一気に“敗北の記憶”で満たされた。
僕は写真機から出て、すごすごと家へ戻った。
途中、ミントの味だけが、やけに濃く感じられた。
第五節 そして、写真は撮られなかった
結局、証明写真は撮れなかった。
スーツを着て、ミンティアを5粒キメて、コンビニで気持ちを整え、勇気を出して中に入ったのに。
やってきたのは、革靴の男とテンパった僕との“動揺のセッション”だけだった。
もしかすると、あの革靴の人も、写真を撮りに来ていたのかもしれない。
そして僕のテンパり具合を見て、「この機械、何かあるな……」と身を引いたのかもしれない。
——だとしたら、僕は“証明写真機の守護者”のような存在になっていたのかもしれない。
第六節 自意識は、今日も元気です
たぶん、誰も僕のことなんて気にしていなかった。
カーテンの外から見えるわけでもないし、「スーツで写真機に入ってる人がいる」くらいで、誰も覚えてなんかいない。
でも、自分の中の“自意識モンスター”が暴れ出すと、何でもないことが大事件に変わる。
そしてそれを笑い話として消化できるようになった今、少しだけ“羞恥の失敗”に寛容になれる気がした。
あのスーツは、クローゼットに戻した。
けれど、あのテンパった「わわわ」は、きっとしばらく僕の中に残るだろう。
【あとがき】
「証明写真機の中でテンパった話」という、一見どうでもいい出来事にここまで向き合える自分を、ちょっと誇りに思っている。
だって、これがほんの数年前の自分だったら、モヤモヤしたまま飲み込んで終わっていたと思う。誰にも言わず、誰にも気づかれず、心の奥にそっとしまっておいて、二度と思い出さない。もしくは、思い出したときに「あのときの俺、やっぱりダサかったな……」と自己嫌悪するだけだったかもしれない。
でも、こうして文章にしてみると、不思議なことに笑えるのだ。あの「わわ、あ、ごめん」という情けない声も、今となってはちょっとした愛嬌にすら思える。テンパって言葉が出ない自分、羞恥心と向き合いながらもなんとか立て直そうとする自分、そして秘密基地に侵入されて素直にしょんぼりする自分——どれもこれも、なかなか味がある。
人間って、そういう不完全さにこそ魅力があるのかもしれない。
「冷静に振る舞える自分」でありたいと、ずっと思っていた。
場の空気を読めて、的確に受け答えできて、動揺なんか一切見せずに、颯爽と立ち去る。そういう「かっこいい大人」像に憧れていた。でも現実には、「あわわ」と口走るような大人になってしまった。
けれど最近は、その“理想とのズレ”にこそ人間味があると思えるようになった。完璧じゃないから、笑える。失敗するから、誰かと共感できる。あの証明写真機の狭い空間でテンパっていた僕は、まさに「人間らしい人間」だったのだ。
こうして文章に残してみると、恥ずかしい記憶も愛おしいものに変わる。文章の力って、すごい。
そしてなにより、あの日の出来事が「ただの失敗」ではなく、「ネタ」に変わった瞬間、僕はちょっとだけ前向きになれた。
——そう、これからも僕は、自分の中の「ダサい部分」とうまく付き合いながら、笑えるように生きていこうと思う。
いざという場面でテンパってしまっても大丈夫。
それは、あなたが「ちゃんと人間してる」証拠なのだから。
【読んでくれたあなたに、最後の質問】
あなたにも、「あとから思い出すと恥ずかしいけど、どこか愛おしい失敗」ってありますか?
たとえば、電車の中でお辞儀をしちゃったとき。
オンライン会議でカメラを切り忘れて、謎の顔を晒してしまったとき。
告白のつもりが、なぜかクイズ番組みたいな口調になってしまったとき。
その瞬間は穴があったら入りたいほど恥ずかしかったのに、今思えば、あれは“自分らしさ”だったのかもしれない。
あなたの中の「テンパりエピソード」も、ぜひ教えてください。
誰かに話すことで、きっと少し笑えて、少しラクになります。
そしてそれは、あなた自身をちょっとだけ好きになるきっかけになるかもしれません。
【エンディング】
気づけばまた、どうでもいいことを真面目に書いてしまった。
たぶんこれが癖なんだと思う。
どうってことのない出来事に、少しばかり言葉を与えて、それっぽく整えてみる。
それによって何かが変わるわけでもないし、誰かの役に立つわけでもないかもしれない。
でもまあ、それでいいのだと思っている。
人に話すほどじゃないけど、なんとなく心に残っていることって、誰にでもあると思う。
口に出すには気恥ずかしいし、わざわざ言うほどのことでもない。
でも、なぜか自分の中ではしつこく残っていたりする。
そういう小さな違和感や、おかしな風景や、自分でもうまく説明できない気持ちを、
ブログという形にして、そっと置いておくのが、僕なりの保存方法なんだと思う。
それは、日記とも少し違う。
自分のために書いているようで、どこかに誰かの気配をうっすらと意識していたりもする。
かといって、「読まれたい」と強く思っているわけでもない。
伝えたいのか、ただ置きたいだけなのか、自分でもよくわからないまま書いている。
でも、その曖昧さごと残しておけるのが、ブログの良さなのかもしれない。
読み返してみると、「なんでこんなこと書いたんだっけ?」と自分でも首をひねることがある。
あの時の自分が、どこに向かって書いていたのか、正直わからないこともある。
けれど、どれもその瞬間の自分には、それなりの必然があったんだと思う。
意味のないことを真面目に綴ることでしか、気づけないこともある。
それに、そういう行為だけが拾い上げられる感情も、たしかにある気がする。
そう信じて、今日もキーボードを叩いている。
そもそも、“書く”という行為そのものが、
なにかを整理するためではなく、かき混ぜるためにあるような気がしている。
思い出したくないことがふいに浮かんできたり、
忘れたと思っていた感情に形が与えられてしまったりする。
そういう厄介さも込みで、言葉って面白い。
この文章にも、特にオチはない。
ただ、もし読んでくれた人の中に、何かちょっとだけ引っかかるものがあったなら、それはとても嬉しい。
共感じゃなくていい。納得もしなくていい。
ただ、「なんかわかる気がする」と思ってもらえたなら、それだけで充分だ。
うまく言葉にできない気持ちに、ほんの少し形を与えておくことで、
どこかに浮かんでいた感情が、ふっと着地することもあるかもしれない。
誰にも見られないまま終わる記事があってもいいし、
あとで読み返して「なんだこれ」となる日が来ても、それはそれで悪くない。
すぐ忘れてしまうような話でも、ちゃんと書いておくことで、
たとえ一瞬でも自分の中にあった、という証明にはなるから。
というわけで、この話もそろそろ終わり。
たいしたことは言ってないけど、たいしたことじゃないことを、ちゃんと書いておくのが好きなのだ。
また次回、似たようでちょっとだけ違う話を、きっと書くと思う。
そのときも、なんとなく読みに来てもらえたら、それはもう、とても光栄なことである。

